甲斐駒ヶ岳・2

2022/06/03(金)晴・22/70

初めての冬山も甲斐駒だった。甲斐駒初登頂の2年後、1969年12月30~1月5日だった。

アプローチは戸台から。当時は、伊那北駅まで電車で、駅から戸台はJRバスだった。ノンビリした時代で、伊那北駅では、JR職員の「熱いお茶」サービスがあった。

戸台~八丁坂~北沢峠は長かった。長かった理由は、30kg近い荷物が重かった。当時は、登攀具のカラビナが、まだ鉄製(現在は軽量ジュラルミン)だった。ザイルは太い12ミリ、ヤッケ・オーバーズボンはビニロン。靴は革でオーバーシューズを付けた。テントもビニロンで、カチカチに凍った。

その時、甲斐駒・仙丈ヶ岳・摩利支天水晶沢・摩利支天中央壁を上った。摩利支天壁は、出発は3:00、途中で激しい風雪になり、テント帰着は、22:00だった。1月2日だったが、その日、各山域で遭難が多発した。

北嶺登行会(1969年・霧ヶ峰

初めての冬山の山岳会は、沼津にあった「北嶺登行会」だった。沢登り・岩山・雪山と次第にエスカレートする登山に職域山岳会では無理があった。会社の山岳会ではリスクが高い登山は出来にくかった。そこで沼津の社会人山岳会に入会した。

会長は、図書印刷に勤務するO氏だった。O氏は小柄だったが、登攀は上手かった。現在、健在か不明だが、「たかチャン、たかチャン」と可愛がってもらったと思う。

当時の山は、岩登り・沢登りが多かった。岩の訓練は、鷲頭山ロックガーデンか大仁・城山だった。

車もない金もない時代だったから、近場で岩訓練が出来る両山は有難かった。鷲頭山の場合、下山後、沼津上土にあったJAZZを聞かせる「ハニー」に寄ってコーヒーを楽しんだ。

1971年10月、北アルプス・奥又白池(右は清水准一)