回想2000回登山・2

2023/04/20(晴)20/64

つづき

 その後、丹沢は「心の山」となった。首都圏・静岡東部の山屋は、「丹沢に始まって、丹沢で終わる」の言葉がある。丹沢は、近くて良い山「沢・尾根・縦走」と三拍子揃っていた。冬、積雪も多い。ちなみに釣りは、「鮒に始まって、鮒で終わる」焼き鳥は、「シロに始まって、シロで終わる」といわれる。

                   ■                   

 山岳部の先輩に教えられたことは、山は「読んで・登って・書く(記録を残す)」であった。当時、SNSスマホはない。情報は、「山と渓谷・岳人・岩と雪・新ハイキング」などの山岳雑誌。毎月発表される記録を食い入るように読んだ。自身の記録も克明に残した。パソコンはない。大学ノートに書き残す。結局、ノートは37冊になった。

 

記録ノート

 

 2000回登山で皆さんにいわれたことは、「良く記録を残した」である。記録が残っていなければ上った確証はない。「私もそのくらい上っている」では話にならない。記録は、「自身の分身」だ。

                    ■

 しかし、一口に2000回といっても改めて半端ではないと感じた。現在のように、土日・祭日が休みなら、年間50日は可能。それでも、500回は10年、1000回は20年必要。

 昔は、休みは日曜日だけ。連休はなかなか取れず、大きな山は会社を休まないと行けなかった。勢い「アイツは会社をサボって、山ばっか(し)行っている」と白い目で見られた。昇給・昇進の査定は当然、悪かった。それでも悔いはなかった。

 (しかし、結局、私は会社勤めをしながら、登山・スキーでヨーロッパ・アルプス2回、登山でヒマラヤに行った。仲間・会社には迷惑を掛けたと思う)

 北アルプスなどは、会社から山の格好と荷物で御殿場線下土狩駅に行き、沼津駅から東海道線富士駅に着き、身延線19:00最終電車に乗って甲府駅着だった。従って、乾徳山・大菩薩など日帰りは出来なかった。一泊である。

今では、下山後温泉付き。時代は変わった。しかし、同時に失ったものもある。連休は中部・東部の岳人が最終電車の乗り合わせ、交流し人脈が出来たが、車時代到来で霧散した。甲府駅のいわゆる「ステーション・ホテル」に何回も泊った。

移動の電車・バスは、兎に角、時間が掛かった。前述の丹沢など東丹沢はまだ良いが、西丹沢の沢日帰りは難しかった。従って、バイクで何回か行ったこともある。バイクは、荷物が重いのと雨には参った。

 電車・バスは、長い山行で荷物が大変。スキーは、電車移動で板は邪魔者。スキーを網棚のネットに下げたことが懐かしい。あの風景は壮観だった。それと何処かのオバサンが「何処に行った、何をした、どうだった」と質問攻めで閉口したものだ。

つづく