伊豆巡礼・2

2022/06/10(晴)21/72

つづき

境内入り口で住職ご夫妻が見送ってくれた。伊豆札所で見送ってくれる住職は少ない。

先代の住職も必ず見送ってくれた。

先代は今の住職の父君。前回、3年前来た時は大分、認知気味だった。現在は施設に入所しているといった。伊豆札所は、一周に2~3年掛かるが、その度に状況は変わる。諸行無常諸法無我

なお寺には、住職の3代前(?)の祖祖祖母(浅香トミさん)が明治45年4月(1912年・110年前)の伊豆巡礼した時のご朱印帳が残されている。

立派な手書きの表紙には、「田方郡對島村八幡野」の住所が書いてあった。三嶋大社ご朱印もあった。

住職ご夫妻・1

住職ご夫妻・2

寺から脇道に入りR135に出る。車が多い。少し先に旧道が伸びる。旧道は静かでイイ。途中、「曽我物語発祥の地」の「椎の木三本」がある。

 

・・・世に名高い曽我物語の悲劇は、この奥にある椎の木三本の場所から始まった。

伊東祐親に恨みをいだく工藤祐経は、腹心の部下二人に命じて、祐親とその嫡男河津三郎祐泰のの暗殺をはかった。部下の八幡三郎と大見小藤太の二人は、この奥の椎の大木に隠れて、下の道をとおる親子をねらった。

祐親はけがだけですんだが、はじめに来た河津三郎は遠矢にかかって生命を落とした。

父を殺された二人の遺児が成長して曽我兄弟となり、十八年の辛苦の末に富士の裾野で仇を討つまでの物語が、世に名高い曽我物語である。
犯人がたてにした椎の木三本と呼ばれる椎の大木があったが、最近枯死してわずかに名残をとどめるだけである・・・ネット

 

次の寺、龍豊院まで旧道は長かった。手前の民家に美しいサボテンが咲いていた。「クジャクサボテン」だった。ちなみに「月下美人」もクジャクの仲間。

クジャクサボテン・1

クジャクサボテン・2

寺着。住職は昨年、亡くなったようだ。この日は、次の30番・自性院まで歩く予定だったが、既に時間は15:30。今日はここまでとした。

長泉に戻り、駅前の「満貫」で中澤会員のお祝い。昨年、結願した恩田夫妻も駆けつけてくれた。全部で7名。佐々木さんが持参してくれたシャンパンで乾杯。ご馳走様でした。お祝いと思い出話で夜は更けました。

おわり

 

 

 

 

 

6月度・伊豆巡礼1

2022/06/09(木)晴・20/75

昨日は、6月度・伊豆巡礼でした。巡路は、伊東高校上8:34一吉田地先一ショートカット道9:32一伊豆高原一28番・大江院(昼食)11:45~12:59一来宮神社一R135旧道一29番・龍豊院14:54~15:15-旧道15:20一三島一長泉17:00(満貫で中澤会員の結願祝い7名)

天気=午前・霧雨、午後・晴れ 距離=約16km 参加=14名

出発

休憩

ショートカット道・入口

前回最終の伊東高校上から出発。肌寒く霧雨だった。傘を差して歩く。小一時間でR135ショートカット道に入る。この道は、巡礼を始めた15年前から使っている。この道を使わないと、行程は倍になる。

ただ、忘れられた道で普段、ほとんど使われないことから荒れている。しかも天気は小雨。最悪だった。入り口が堰堤状でぬかるんでいた。靴が半分泥にハマりながら突破した。

道中の路はマアマアだったが、倒木が多かった。5~6本あっただろうか、その都度、潜ったり、跨いたり、時には迂回して乗り越えた。おかげで白衣が汚れた。

これは???だ

歩く

28番・大江院

ようやくこの難路を突破し、R135に出た。今後、これ以上荒れると使えないかも知れない。長い長い伊豆高原路を歩き大江院着。

お勤め後、中澤会員の「満願成就・結願・完歩」のお祝いをする。中澤会員は、3年掛かったという。コロナ・猛暑・悪天候で伸びに伸びた。それでもよく頑張った。

お祝い後、本堂で昼食。食事後、境内で記念撮影。退出時、住職から境内の夏ミカンを頂いた。美味しいミカンだった。

つづく

記念撮影・1

記念撮影・2

寺でいただいた夏ミカン

 

 

 

小富士・グランドキャニオン2

2022/06/07(火)曇・20/73

つづき

一部の方は、東富士山荘に荷物を置いて「まぼろしの滝」を確認しに行く。前後して他の何人かも向かった。

沢は駐車場脇にあったが、流れは全くない。ただ、砂紋は、つい最近まで流れたていた感じだった。

流れを探しに沢を上る。滝があり初心者は大変。落石もあるので、途中で止めて右岸の草付きを上り、お中道に出た。

天気はガス・霧。雨は降っていない。気温は低く、手袋がないと辛い。反対側から若い衆が3名やって来た。情報交換。彼らは「まぼろしの滝」でなく、この先にある、「遭難放置車両」を見に行ったという。

何でもこの先に誰かが乗り捨てた、ジープ、グランド・ワゴニアがあるという。高級車両らしい。(写真はネット)

 

お中道・1

お中道・2

お中道・3

我々は手前の大きな沢沿いを上った。上からご夫婦的な方が下って来た。2300m付近まで上ったが、「チョロチョロ」の情報。時間は10時半。標高は、2135m。我々は、ここで終了した。

東富士山荘に下る。昼食をいただく。山荘は、「寒いので中でどうぞ」と、持ち込みOKでも歓待してくれた。まだ、山開き前で混んでいないこともある。

皆は「きのこ」をアレンジした、きのこカレー・きのこソバ・きのこラーメン・きのこチャーハンを注文して食べた。

寒い日だったので、温かいものは、美味しそうだった。

きのこカレー

きのこソバ

きのこラーメン

昼食を終えて、午後の部開始。ゾロゾロと小富士(1979m)に向かった。

つづく(明日は伊豆巡礼で日記はお休みします)

小富士・グランドキャニオン1

2022/06/06(月)雨・22/67

4日土曜日は、富士山=小富士・グランドキャニオン~幻の滝でした。コースは、グランド・キャニオン入口一五合目旧道一五合目一幻の滝一最高到達点約2135m一五合目・東富士山荘(昼食)一小富士一三角点ーグランド・キャニオンー入口。

天気=曇り・霧、標高差=約715m、参加=6名。

グランド・キャニオン入口

グランド・キャニオン

小富士に「まぼろしの滝」を見学に行く。グランド・キャニオン入口から出発。朝、天気は良かった。眩しい新緑の中上る。右手にキャニオンが見えた。

前回、キャニオン沿いに進んだが、今回は、五合目旧道を行った。道は、ハッキリせず右往左往する場面が多かった。

カモメラン(鴎蘭)・1

カモメラン・2

急登を行くと、足元に綺麗な花があった。Yさんがスマホで確認すると「カモメラン(鴎蘭)」だった。花名の由来は、花の中の斑点模様が、カモの胸斑点模様に似ているからだった。

Yさんの10倍ルーペで観察すると、確かに花の中に、華麗な斑点模様があった。この斑点で虫を誘うのかな。

道標・1

道標・2

大分上って来た。五合目まで10分程度の所に、古の石柱があった。小富士への道標だった。裏を覗くと「昭和10年」と刻んであった。

1935年だから、87年前のモノだった。何人かの名前もあったので、皆さんで寄進したのだろうか。

ひと上りで五合目・東富士山荘着。主人の米山さんは元気そうだった。ここに荷物を置いて、「まぼろしの滝」を見学に行く。ただ、米山さんの話では、「すでにお終い」「2600mくらいまで上らないとダメ」だった。

つづく

五合目

東富士山荘

 

 

甲斐駒ヶ岳・2

2022/06/03(金)晴・22/70

初めての冬山も甲斐駒だった。甲斐駒初登頂の2年後、1969年12月30~1月5日だった。

アプローチは戸台から。当時は、伊那北駅まで電車で、駅から戸台はJRバスだった。ノンビリした時代で、伊那北駅では、JR職員の「熱いお茶」サービスがあった。

戸台~八丁坂~北沢峠は長かった。長かった理由は、30kg近い荷物が重かった。当時は、登攀具のカラビナが、まだ鉄製(現在は軽量ジュラルミン)だった。ザイルは太い12ミリ、ヤッケ・オーバーズボンはビニロン。靴は革でオーバーシューズを付けた。テントもビニロンで、カチカチに凍った。

その時、甲斐駒・仙丈ヶ岳・摩利支天水晶沢・摩利支天中央壁を上った。摩利支天壁は、出発は3:00、途中で激しい風雪になり、テント帰着は、22:00だった。1月2日だったが、その日、各山域で遭難が多発した。

北嶺登行会(1969年・霧ヶ峰

初めての冬山の山岳会は、沼津にあった「北嶺登行会」だった。沢登り・岩山・雪山と次第にエスカレートする登山に職域山岳会では無理があった。会社の山岳会ではリスクが高い登山は出来にくかった。そこで沼津の社会人山岳会に入会した。

会長は、図書印刷に勤務するO氏だった。O氏は小柄だったが、登攀は上手かった。現在、健在か不明だが、「たかチャン、たかチャン」と可愛がってもらったと思う。

当時の山は、岩登り・沢登りが多かった。岩の訓練は、鷲頭山ロックガーデンか大仁・城山だった。

車もない金もない時代だったから、近場で岩訓練が出来る両山は有難かった。鷲頭山の場合、下山後、沼津上土にあったJAZZを聞かせる「ハニー」に寄ってコーヒーを楽しんだ。

1971年10月、北アルプス・奥又白池(右は清水准一)

 

 

 

 

 

甲斐駒ヶ岳・1

2022/05/02(木)晴・20/65

南アルプス甲斐駒ヶ岳(2967m)は、山梨では、甲斐駒ヶ岳と呼ぶ。しかし、伊那では、「東駒ヶ岳」と呼ぶ。ちなみに中央アルプス木曽駒ヶ岳は、西駒ケ岳と呼ばれる。

山名は地域によって違う。奥秩父金峰山は、山梨では「きんぷさん」だが、長野では、「きんぽうさん」と呼ばれる。

ヒマラヤのエベレストは英語名。ネパールでは、サガルマータ、チベット(中国)では、チョモランマという。

甲斐駒ヶ岳・1

甲斐駒・2

甲斐駒は、55年の登山人生で多く上っている山である。理由は、高峰であるが、入山し易い山だからである。

山梨の黒戸尾根から入山の場合、長泉から車で3時間程度で入山出来る。八ヶ岳・赤岳も3000m近い高峰だが、アプローチは、黒戸尾根より掛かる。富士山を除けば、甲斐駒は静岡岳人には、最も身近な山といえる。

甲斐駒初登山は、1967年11月。今から55年前、私が20歳の時だった。勤務していた会社の山岳部で連れて行って貰った。

この時は、電車・バスで行き、戸台から入山し、角兵衛沢から鋸岳から縦走し、甲斐駒に登頂し、黒戸尾根を下った。

1967年11月・甲斐駒鋸岳=第一高点
前列左から、井上茂貴、井上国利、後藤
後列左から、鎌野剛、瀬戸行男

この山は、私にとって、前年の南アルプス・荒川三山に続き、二度目のアルプス登山だった。

11月で結構寒かった・紅葉がキレイだった・テントで干していた靴下が、鍋の中に落ちたが「闇鍋だあ」で、食べたことを今でもハッキリ記憶している。

(注=写真中、多くの方は故人です。合掌)

つづく

 

 

 

日向八丁・鞍掛山3

2022/06/01(水)晴・22/70

つづき

「クモイコザクラ」を堪能後、鞍掛山に向かう。標高差約100mの上り。最初から崖上りだった。所々にロープ・クサリが下がっていた。

ストックも使えないので仕舞った。手足を木の根や幹を掴み上る。上から何人か降りて来た。「素晴らしい、ご褒美が待っていますよ」の報告を受ける。

一旦上ったが、なかなか山頂には着かない。上ったり下ったり、横断したり登山道は複雑に錯綜していた。それでもようやく、2037mの山頂に着いた。ただ、展望台は先で一旦下り、上り直し展望台着。

崖上り

鞍掛山分岐

展望台・1

展望台・2

展望台・3

時間は13:07だった。予定の12:00を1時間プラスだった。約1500mの標高差。大きな標高差に慣れない方が1名居て時間が掛かった。場所場所で2~3分待てば、長い工程では1時間位すぐ余分に掛かる。

展望は素晴らしかった。ここまで来た甲斐があった。昼食がまだだった。遅い昼食をあたふたと済ませた。下山も長いことを考えれば、昼食は12時前に済ませたかった。結局、この日、我々が最後のパーティーだった。

下山・1

下山・2

簡単な昼食で下山。崖下りが思いやられたが、案外、そうでもなかった。駒岩の上り返しも思ったほどでなかった。

日向山に向かうグングン下る。長い。疲れた。途中、錦滝に下るショート・カットがあるが真っすぐ行く。錦滝経由が楽だが、日向山が初めての方が居るので、そうはいかなかった。最後、日向山に向かう。

日向山・1

日向山・2

日向山・3

日向山・4

日向山も素晴らしい。花崗岩が風化した砂礫の展望台。これほ程、素晴らしい山は、ザラにない。多くの登山者が山を楽しんでいた。ここは、いつも昼間時間が多いが、今回はすでに16時。山々が斜光に照らされ、いつもと違う印象が新鮮だった。ユックリしたかったが、早々下る。

長い長い尾根道だった。山梨・双葉町の若い衆とダベりながら下る。気持ちの良い若い衆だった。18:14、ようやく駐車場着。こんな遅い下山は久しぶりだ。ババさまに挨拶。長泉着は21時。それでもキッチリ反省会を済ませたのが23時。長い長い1日だった。(おわり)

双葉町の若い衆

駐車場